バレンタインデーだった。
学生にとっては、一年で最もどきどきわくわくするイベントだ。32歳、おじさんの僕には特に関係ないイベントだと思っていたのだが、今年は少し様子が違った。
まずは、お昼のアルバイト先。 大手町のビルの地下にある居酒屋でランチタイムの仕事を終えると、一緒に働くパートの主婦の皆さんから声をかけられた。
「板野くん、お疲れ様! はい、これチョコ。テスト頑張ってね」
温かい言葉と一緒に手渡されたチョコ。 誰かに応援してもらえる居心地の良さが、改めて身に染みた。
さらに夕方、学校へ行くとそこでも驚くことがあった。 同じ1年生の女子生徒から「これ、チョコどうぞ!」と手渡されたのだ。
ふむ……おじさんも貰えるのか……そういうものなのか。 戸惑いながらも、素直に受け取った。結局、学校では3人の女子生徒からチョコを受け取ったのだが、周りの現役男子たちが一つも貰えていない中で、おじさんの自分がいくつも手にしているのは、なんだか少し申し訳ないような、複雑な気持ちになった。
でも、よく考えてみれば心当たりはあった。 僕は普段から、コミュニケーションのきっかけになればと、よくみんなにお菓子を配っていたのだ。 「これあげるよ」「お疲れ様」 そんな何気ないやり取りの積み重ねが、彼女たちにとっては「いつもお菓子をくれるおじさんへのお礼」という形になったのかもしれない。
さらに、思いもよらぬところからもいただく。 同じクラスの「おやかた」が、僕のところへやってきたのだ。16歳とは思えない貫禄を持つ彼から、無造作にチョコを差し出された瞬間、僕は心底びっくりした。
(えっ……おじさん、16歳の男の子からもチョコ貰っちゃうの!?)
一瞬、思考がフリーズしたが、彼はすぐにこう付け加えた。 「これ、うちの母からです」
……なるほど。彼のお母さんはPTAに所属していて、スポーツ大会や文化祭などの行事で僕のことを見かけてくれていたらしい。知らない人ではないけれど、まさかそんな角度からチョコをいただくとは思わず、なんだか不思議な縁を感じた。
結局、カバンの中はたくさんのチョコでいっぱいになった。 帰宅して「学校の女の子たちやパートさんからチョコ貰ったよー」とあやちゃんに報告すると、「板野くんカッコいいもんね!」と笑っていた。
チョコの甘い香りに包まれながら、僕はふと、トラックを走らせていた頃のバレンタインを思い出していた。
当時の僕にとって、バレンタインは「イベント」ではなく、ただの「繁忙期」だった。 荷台いっぱいに詰め込まれた、大量のチョコレートの箱。それを深夜まで、ひたすら目的地へと運び続ける。世の中の誰かが幸せになるための商品を、睡眠不足で目をこすりながら、必死に運んでいた。
あの頃、僕の手の中にあったのは、重い荷物とハンドルだけだった。 自分がチョコを受け取ることなんて想像もせず、ただ「早くこの忙しい時期が終わればいい」とだけ願っていた。
16年前に学校を投げ出した自分。 1年前に、孤独に大量のチョコを運んでいた自分。
そんな過去の自分たちに、今のカバンの中身を見せてあげたい。 「お前が運んでいたのは、こんなに温かいものだったんだぞ」と。
32歳のバレンタイン。 かつての僕には想像もできなかった、賑やかで、そして少しだけこそばゆい、最高に甘い一日になった。