登校2日目。いよいよ本格的な「授業」が始まった。
夕暮れの教室。自分の席に座り、まだ折り目のついていない真っさらな教科書を開く。 ここが、僕のやり直しの第一歩なんだ。
そう思うと、なんだか感慨深い……と言いたいところだけれど、実際にはそんな大げさなものではなかった。ただ、新しい教科書の独特なインクの匂いを嗅ぎながら、「よし、頑張ろう」と静かに、けれど確かに腹を決めた。そんな31歳の春の夜だった。
最初の授業は、英語だった。 教室に入ってきたのは、あの入学試験の日の面接で、僕の「人生をやり直しに来ました」という言葉に優しく微笑んでくれた女性の先生だった。
「板野くん。これからよろしくね」
先生が僕のことを覚えていてくれたことが、なんだか無性に嬉しかった。 授業はまず、現在の学力を確認するレベル分けテストから始まった。この学校では、テストの結果によって「α(標準)」と「β(基礎)」の2クラスに分けられるシステムになっていた。
英語は大の苦手だ。15年の空白がある僕に、現役の高校レベルなんて到底無理。当然、基礎を叩き込んでくれる「βクラス」になるだろうと思っていた。
ところが、結果はまさかの「αクラス」だった。
(えっ、なんで僕が上のクラスなんだ……?)
基準が逆なんじゃないかと思ったけれど、間違いなく僕の席は標準レベルのαクラスに割り振られていた。英語が苦手な自分にとって、これは正直「マズいな」というプレッシャーでしかなかった。けれど、決まってしまった以上はやるしかない。「I am…」の復習から、必死に食らいついていく覚悟を決めた。
続いて、数学の授業が始まった。 教科書の最初のページをめくった瞬間、僕は少しだけ目を見開いた。
そこに並んでいたのは、四則演算。 足し算、引き算、掛け算、割り算。小学校で習うはずの、算数の基本中の基本だった。
(……簡単すぎる。これ、本当に高校の授業なのかな?)
最初はそう思った。けれど、ペンを動かしているうちに、ふと周りの景色が目に入った。 定時制高校は、かつて小中学校で不登校を経験したり、さまざまな事情で学びの機会を失ったりした子たちの受け皿でもある。基礎的な計算に自信がない子も、ここにはたくさんいるのだ。
「この学校は、そういう場所なんだな」
そう気づいたとき、目の前の四則演算のページが、昨日までとは全く違って見えた。 「できない子」を置いていかない。もう一度、土台から作り直すチャンスを全員に平等に与える。そんな学校側の静かな「優しさ」を、僕は「1+1」の数式の中に感じ取っていた。
やり直すのに、スタート地点は人それぞれでいい。 それを肯定してもらった気がして、僕は丁寧に、一問ずつ解答欄を埋めていった。
また、1年生の最初には「体力測定(スポーツテスト)」もあった。 50メートル走、幅跳び、握力、前屈。そして、持久走。
トラックドライバーとして10年以上、毎日重い荷物を運び、現場を走り回ってきた自負はある。案の定、筋力や瞬発力を測る種目では、15歳年下の現役高校生たちにも引けを取らない、なかなかの好成績を出すことができた。
(ふふん、おじさんもまだ捨てたもんじゃないな)
なんて調子に乗っていた僕を、現実が叩きのめした。 種目は、持久走。
「……とほほ」
思わずそんな声が漏れた。 荷物を運ぶ筋力と、長い距離を走り続けるスタミナは、全くの別物だったらしい。 数分も走れば心臓がバクバクと暴れ出し、脚が鉛のように重くなる。スイスイと前を走っていく10代の背中が、どんどん遠くなっていく。
身体を動かすことには自信があったけれど、31歳の現実は甘くなかった。 どうやら勉強だけでなく、体力作りもこれからの4年間の大きな課題になりそうだ。
息を切らし、膝に手をつきながら、僕は夜の校庭の土の匂いを吸い込んだ。 不相応なレベルの英語、算数のやり直し、そして情けないほど衰えた身体のやり直し。
すべてをひっくるめて、僕の「1年生」は、最高の泥臭さとともに始まった。