廊下を歩いていて先生を見かけたら、「お疲れ様です」と声をかける。職員室に用事があれば、普通にドアを叩いて入り、雑談のついでに分からないところを聞く。
僕にとって、それは当たり前の振る舞いだった。31歳の僕からすれば、先生たちは「教育という仕事をしているプロ」であり、同時にこの学校というコミュニティで一緒に過ごす「隣人」のような存在だ。敬意は払うけれど、そこに過度な緊張感や壁を感じることはなかった。
けれど、10代の彼らにとっての「先生」は、どうやら僕が見ている景色とは全く違うものだったらしい。
彼らにとって、先生は「管理する側」であり、自分たちは「管理される側」だ。そこには明確な上下関係と、抜き差しならない心理的な距離がある。
「先生に話しかける=真面目ぶっている、媚を売っている」「職員室に行く=何か怒られることをした、あるいはチクりに行った」
そんな極端なイメージを持っている子が少なくなかった。だから、僕が休み時間に先生と笑いながら話しているのを見て、「板野さん、よくあんなに普通に話せますね」と不思議そうな顔をされることがよくあった。
僕が誰にでも声をかけていたのは、単にフレンドリーだからというだけではない。「先生も一人の人間だ」という、大人なら当たり前に知っている事実を、彼らにもなんとなく伝えたかったからだ。
先生だって、自分の授業を一生懸命受けてくれる生徒が可愛くないはずがない。自分から歩み寄って、フラットにコミュニケーションを取る。それだけで、先生側もこちらのことを「一人の生徒」として深く理解しようとしてくれる。
結果として、僕は学校内のいろんな情報をいち早く知ることができたし、何か困ったときにはすぐに相談できる関係を築けていた。それは「おじさんだから」得られた特権ではなく、ただ「壁を作らなかった」から得られた結果だったのだと思う。
彼らが先生を「超えるべき壁」や「避けるべき監視者」だと思っている間に、僕は彼らを「頼れる味方」に変えていた。
「板野さん、さっき先生と何話してたんですか?」そう聞いてくる彼らに、「あぁ、今日の給食の話だよ」と返すと、彼らはまた不思議そうな顔をする。
先生を特別視しすぎて、勝手に距離を置いて損をしている。そんな10代特有のもどかしさも、この教室の愛すべき風景の一つだった。
大人の余裕なんて言ったら格好良すぎるけれど、相手を色眼鏡で見ないだけで、世界はもっと広くなる。そんなことを、僕は教室の隅っこで彼らの背中を見ながら考えていた。