2年生になり、学校生活にもすっかり慣れた頃のことだ。クラスメイトの男子の一人から、ふいにこんなことを言われた。
「itakoさんって、女の子とばっかり話してるよね」
一瞬、何を言われたのかわからず、ポカンとしてしまった。僕自身には、そんな自覚がこれっぽっちもなかったからだ。
僕が声をかけていたのは、女の子だけじゃない。男子だってそうだし、廊下ですれ違う他クラスの生徒も、そして先生たちだってそうだ。生徒会長という立場もあったけれど、それ以上に、この学校というコミュニティで一緒に過ごす「仲間」だと思っていた。だから、目についても相手が誰であってもフラットに、自分から挨拶をしたり雑談をふったりしていた。
でも、彼にはそうは見えなかったらしい。「なんでそんなふうに思うんだろう?」と、僕はしばらくその理由を考えてみた。
そこで至ったのは、これは僕と彼の**「基準の違い」**なんだろうな、という結論だ。
16歳や17歳の男の子たちにとって、異性に声をかけるという行為は、おそらく僕たちが想像する以上にエネルギーを必要とする「大きなイベント」なのだ。照れや自意識が邪魔をして、用もないのに女子に話しかけるなんて、なかなかできることじゃない。
彼らの多くは、男子は男子、女子は女子という見えない壁の中で過ごしている。あるいは、先生とは「指導する側とされる側」という、一定の距離を保った関係でしかない。
そんな彼らの「ものさし」からすれば、性別も役職も関係なく、ひょいひょいと誰にでも話しかけ、女子とも普通に談笑している僕の姿は、周囲の他のクラスメイトと比較して、ひどく「女子とばかり話している」ように映ったのだと思う。
彼にとっては「女子と話す=特別なこと」だった。だから、僕がみんなに平等に接していても、彼の目には「特別なこと(女子との会話)」ばかりが強調されて映ってしまったのだろう。
31歳で既婚、社会人経験10年の僕にとって、コミュニケーションは単なるコミュニケーションでしかない。相手が女子だからといって、そこに特別な下心も緊張感もない。でも、10代の彼らのフィルターを通すと、その「壁のなさ」が、彼らの日常とは違う、異質なものに見えてしまうのだ。
大人にとっては「0(当たり前)」の交流でも、10代の彼らの物差しで測れば、それは「+100」の積極的なアプローチに見えてしまう。
彼に「女好き」のように見えていたのだとしたら、それは僕が実際にそうだったからではなく、彼が「10代らしい純粋な自意識」という景色の中にいたからなのだと思う。
そんな感覚のズレに気づいたとき、僕は改めて、自分と彼らの間にある15年という歳月の重みを感じた。生徒も先生も、みんなに声をかける。そんな僕の当たり前が、彼らの目にはどう映っているのか。こうした些細なやり取りの中に、多世代が入り混じる教室の面白さが隠れている。