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ep.51 2年生

「恥ずかしい」の正体。

「女の子とばかり話している」と言われた件もそうだが、2年生になってから、僕は10代の彼らとの間に「恥ずかしい」と感じる基準の決定的な違いがあることに気づいた。

象徴的だったのは、授業中の風景だ。

定時制の教室は、決して静まり返っているわけではない。むしろその逆で、いつもどこかざわついている。休み時間のノリがそのまま続いていたり、あちこちで小声の雑談が聞こえてきたりと、独特の賑やかさがあるのが普通だ。

そんな空気の中で、先生が「ここ、わかる人いるか?」と問いかける。途端に、そのざわつきの質が変わる。みんな、急に自分の手元に集中し始めるのだ。

僕は、わかれば普通に手を挙げるし、わからなければ「すみません、そこがよくわからないのでもう一度教えてください」と、これまた普通に言う。

31歳の僕にとって、質問することは決して恥ずかしいことではない。むしろ、わからないままにする時間がもったいないという、ごく合理的な判断だ。けれど、僕が手を挙げる理由はそれだけではなかった。

賑やかな教室の中でも、みんな「わからない」けれど「聞くのは恥ずかしい」と思っている。そんな空気が充満しているのが、僕にはよくわかった。

だから僕は、あえて質問をした。「ここ、みんなわかっていないだろうな」と思うポイントがあれば、みんなの見本になるように質問を投げたし、それだけじゃなく、自分が純粋に「それってどういう意味ですか?」「何のためにこれをやるんですか?」と意図が掴めないときも、どんどん言葉にして先生にぶつけた。

大人になってから学び直しているからこそ、形だけの暗記ではなく、その根っこにある意味をちゃんと理解したかったのだ。

けれど、周囲の10代の反応は違った。僕が手を挙げると、背中がわずかに強張るのを感じることがあった。「あいつ、マジかよ」「よくそんな堂々と聞けるな」普段は賑やかにお喋りしている彼らなのに、こういう時だけは、「すげーな」という驚きと「信じられない」という困惑が混ざったような、なんとも言えない視線を向けてくる。

彼らにとって、クラスメート全員の前で発言したり、自分の「無知」をさらけ出したりすることは、命を削るような「恥ずかしい」行為なのだ。

「目立ちたくない」「間違えてバカにされたくない」「先生に媚を売っていると思われたくない」

10代の心の中は、こうした何重もの「恥ずかしさ」のフィルターで覆われている。だから、僕が先生と一人の人間としてフラットに会話をしているだけで、彼らの目には僕がとんでもなく「無敵のメンタルを持つ人」に映ってしまう。

先生だって、一人の人間だ。無視されたり、やる気のない顔をされたりするより、真剣に向き合ってくれる相手には自然と熱が入る。僕が先生たちと仲良くなれたのは、単におじさんだからではなく、彼らが最も恐れている「恥ずかしさ」という壁を、僕がとっくに捨て去っていたからなのだろう。

「itakoさん、意外とわからないことが多いんですね」休み時間にそんなふうに声をかけられることがあった。「そうだねー」僕はそう答えながら、心の中でこう思う。

「恥ずかしい」なんて思っている間に、時間はどんどん過ぎていく。10年のトラックドライバー生活で、僕は「なりふり構わず動かなければ、何も始まらない」ということを嫌というほど学んできた。

僕の質問が、彼らにとっての小さな「助け船」になっていればいい。そんなことを考えながら、僕は今日も、ざわついた教室で一人、元気に手を挙げる。